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輪るピングドラムを見て(雑感)

3/21(意図してないけど20周年!)、友人宅で「輪るピングドラム」を一気に観る会を行ったので、忘れないうちに思ったことを書いておく。(結構まとまってない。)ネタバレあるとおもうのでまだ見ていない人はあんまり読まない方が良さそう。



・音楽が最高に良い
特に良かったのが最初のED「DEAR FUTURE」。すごくシューゲイザーよりの残響ギターだなと思ったら、作曲者のバンド(coaltar of the deepers)がそもそもそっち寄りの曲を作っていて、なるほどと。シューゲイザーとかポストロックみたいな曲は個人的に好きなので大変ツボで、CD買おうか本気で検討している。ほんと、これを知ることができただけで収穫だった。
ちなみに作曲者のNARASAKIさん、楽園追放のBGMとか絶望先生の主題歌とかも手がけてて結構やり手だった。


・メンヘラ(しか)出てこないアニメ
出る人ほぼ全てがメンヘラ、大半は家族に欠陥を抱えているというなかなか激しいアニメだった。
特にきつかったのは前半の苹果ちゃん。多蕗先生大好きストーカーちゃんと、かなりギャグらしく描かれていたのに、その根底にあるのは自分を殺して姉に生まれ変わることというのはぞっとした。前半で一番メンヘラだったのも彼女で、見たこともない姉の亡霊に苦しめられて16年も生きていく、その辛さに耐えかねた一種の自殺準備をしているように見える。
最後に多蕗先生と関係を持つ寸前までいったところで思い直すシーン…遺書を書いて自分が死ぬ支度を終えてからいざ、というときに足元の台を蹴られないとか、屋上からあと一歩が踏み出せないとか、そういう類の迷いと本質的には同じなのではないか。自分を殺すことが怖い、生きることに未練ができてしまったという迷い。その原因が晶馬のセリフ「君は君だ」という彼女そのものの存在肯定だったあたりも極めてメンヘラ的。
しかもこの存在肯定に、晶馬側としては特に理由があるわけでは無く、だからこそ無償の肯定≒アガペー的な愛情として彼女に届いたのかなと考えた。苹果ちゃんには、「姉を知らない人」からの「理由のない存在肯定」が必要で、晶馬はしっかりそれを満たしている。苹果ちゃんが好きになるのも無理ないかもしれない。

もうひとつ身に沁みたメンヘラが多蕗&ゆり。この二人はとてもよく似ていて、どちらも異性の親しかいない(片親)+親は完璧主義であり、それを満たさない人を必要としない。2人の「美しくなければ/ピアノがうまくなければ、愛されない」「なんとしても、何をしてでも愛されたい」という気持ちの吐露がぐさぐさと刺さる…。大概のメンヘラは自分に原因があるから愛されないと思っていて、なんとかして愛されたい/こっちを見てほしい/心配してほしい/認めてほしい、という欲求を持ってリスカしたりオーバードーズしたりSNSでかまってちゃんしたりするわけで、この2人と本質的になんら変わらない。私も同じような発想をしたことがあるので余計刺さった。でも、この2人は間違っているということが作中で明らかに描写されているあたり、こういった発想が誤りだと言いたいんだろうな。自虐・過剰に愛されたいループからなんとかして抜け出さないと本当には幸せになれないというメッセージ性を感じる。というより、本当に幸せかどうかを判断するためには、どの時の幸せ度をチェックするかから定めないといけないと思う。だから、どちらかというと長期的に幸せになるためには病的な承認欲求を治すことが必要になるというメッセージなのかなあ。
ただ、頭では理屈ではわかっていても、それを納得して信じ込むことができるかというとそれは相当難しいことだし、メンヘラがぶり返しやすいのもそれが原因だと思う。大人になってしまった以上、正常な理屈とそれに納得できないという感情の間で苦しむことは避けられなくて、多蕗とゆりにとってはそれが罰になるのかもしれない。メリーさんの羊のエピソードは、羊をこの2人+桃果にしてもなんとなく通じそうでもある。

眞悧は承認されないことを世界(環境)のせいにしてこじらせてしまった大人だし、桃果すら正しかったとは言えない。桃果はあんなに神様のように描かれているにもかかわらず、愛を与える相手をしっかり選別しているのがある意味人間なんだなあと。それに気づけない多蕗とゆりだったから、2人は桃果のためという大義名分の下でなんでもしてしまうともいえる。眞悧が言う「人間は理由があれば簡単に人を殺せる」セリフは重みがあった。いずれにせよ私はあまり桃果を良いキャラとしては見られなかった。


・物理法則などなどを無視したストーリー
イクニ作品は初めて見たけど、確かにある意味不親切な作品だった。見ていて「なんで突然電車が異空間になるの?」とか「なんでペンギンが段ボールにはいったらベルトコンベアが逆向きに回るの?」とか「こどもブロイラーにはどうやっていくの?」とか、とにかく疑問になることは多いのに、それに対する答えがほとんど出ない。だからよくわからないアニメになってしまう。変身バンクもそうで、とにかく答えが与えられないまま不思議な表現を見続けることになって、見終わった感想が「よくわからないけど面白かった、感動した、つまらなかった」などになる。
個人的な考えとしては、演出の全ては舞台装置であって、見た人になにかぼんやりとでも印象を残すためにあるというそれだけのものだと思う。一つ一つのことに対する裏付けもないし、ご都合主義で進んでいくけれど、そこが問題なのでは無くて、もっと観念、比喩的な部分が問題である。
答えがきちんと出ないと嫌な人にとっては相当ストレスが溜まるだろうけれど、個人的にはこういった、伝えたい物のために手段を選ばない(というより最適なものであれば道理が通らなくても選ぶ)作品は好きなので楽しく見ることができた。目的重視という点では、高校のときに読んだ安部公房の「棒」という小説に近い物を感じる。あの小説も理由無くお父さんが棒になったところから話が始まる。
ピンドラには結局はっきりとしたオチがつかず、乗り換え先と前でどちらが幸せだったのかはわからないようにされていた。私はこれについてはむしろはっきりとした答えを与えるべきではないし、そんなものは存在しないと考える。幸せになるための最適解なんてこの世にはなくて、それでも最適解があるはずだと思い込んでしまった人たちの結果がKIGAだったのではないか。運命の乗り換えで幸せの総量は変わらないだろうし、陽毬の命と引き換えに三人の幸せな生活の喪失と爆破テロの失敗と苹果ちゃんが好きな相手の喪失があって、結局全体としてみればプラマイゼロになっている気がする。

もうひとつ演劇的だと思ったのはカメラワーク(舞台上へのキャラの配置)だった。カメラワークについてはガンダムで有名な富野さんが本を出しているらしいが、それによれば、上手側にキャラを置くか、顔の向きはカメラ向きか反対か、など様々な要素に気を遣ってコンテを書くという。与える印象が変わってくるということだった。それについての考察記事を読んで、こんなに相手に与える印象を考えてコンテを書くんだなあと感動した。


・病院あたりからよく出てくる下りのシーン
一つは陽毬がサンシャインシティのさらに地下までペンギンに誘導されるシーン、もう一つは真砂子に誘導されて冠葉が階段を降りていくシーン。どちらも行動主体の深層心理へ辿り着くという結果になるので、意図的に下りにしたのかなあと。ユング心理学だったか忘れたが、人の意識の奥底は繋がっている=集合的無意識であるという考え方があるけれど、冠葉に比べ相当深く潜って行った陽毬が初めて眞悧に会うところを見ると、呪いとなった眞悧は集合的無意識にいて、誰にでも声をかけることができるのかもしれない。というより普段意識しても気づけないようなところまでしか出て来られないように桃果に封印されてしまっているのかもしれない。
集合的無意識といえば、電撃文庫で「断章のグリム」という作品があるが、(途中までしか読んでないけど)ああいう発想は結構好き。これらの作品全て、実際に正しいかどうかを問うのはナンセンスだし、答えなんて作者にしかわからないよなあと。


・声優の演技
一番感動させられたのはやはり多蕗(石田彰)の演技。あまりにもうますぎる。特に惚れ薬が効いているベッドシーン、実に色っぽい声で、本当に好きな人を誘ってるみたいな響きが最高だった… とても良かった。そのあときちんと違和感無くギャグにつないでいくのもうまい。流石あらゆる役をこなしてきただけあるんだなあと。どうでもいいけど、石田の誘うシーンの声色、乙女向けCDで優しく励ますときに出すそれとかなり同じだった。それを思い出すとこそばゆかった…。

もう一人よかったのは眞悧。明らかな悪役としての声じゃなくて、ずっと人を翻弄し続ける感じはとてもよかった。最後、乗り換え直前に呪う言葉を発したとき、初めて彼の本来の感情の発露を感じて本当に良さだった。眞悧はどちらかというと麻縄というより真綿というイメージだし、自分の意思をできる限り表に出さずに飄々と相手を翻弄する人だと思う。だからこそ本音が隠しきれなくなったところで人間らしさを感じてホッとしたというか、より好きになったかもしれない。


・林檎のシェア
幼少時の箱の中のエピソード、林檎を見つけるのも分けるのもきっと冠葉じゃないといけなかったんじゃないかということ。冠葉と晶馬の違いとして一番大きいのは、取捨選択ができるかどうかだと思う。冠葉は(それが正しいかはさておき)大切なことのために他のことを切り捨てることができていて、ある意味とても大人である。全てがうまくいくことが無理だとわかっていて、だからこそ汚れ役を買ってでも一番大事なものを守ろうとする。冠葉は誰より始めに一歩踏み出す・決断することができる人間で、晶馬は冠葉や苹果の、つまり他人の行動に影響されてから初めて自主的に動き出す人間だったと思う。だからこそ、あのときに林檎を手に入れるのは冠葉でないといけなかったし、始めに陽毬に命を分けるのも冠葉でないといけなかったのではないか。
後半の冠葉はまるで悪役のように描かれているが、冠葉がいなければ三人の生活が本当の家族として回らなかったと思うので、冠葉に対しては割と肯定的に評価している。きっと父親の(病院エピソード)影響だと思うけど、彼は良くも悪くも大人だったんだなあと。そういう意味で言葉通り何者にもなれないのは晶馬の方だったと思う。だから、逆に冠葉はこどもブロイラーに辿り着くことはできなかったはずだ。陽毬を救えるのは何にもなれない側の晶馬だったし、(親を親とみなしていない)晶馬を救えるのはより大人で保護者的な冠葉だったし、冠葉を救えるのは目先の欲無しの、純粋な愛を示してくれる陽毬だったのを見ると、林檎を渡す順番はこうでなければいけなかったのかもしれない。
この林檎=命=愛の巡りがピングドラムだ、という考察記事をよく見たが、私もそうだと思った。  とはいってもこの項についてはあまりに話が穴だらけで自分でもあんまりよくわかってないかも。


・その他
最後の生存戦略では、陽毬がプリクリ様ではなく陽毬自身だったというのに結構感動した(目の色が変わっていない)。
あとはあちこちにでてくる熊モチーフにユリ熊を感じずにはいられなかった。もともとピンクベアプロジェクトって続編的位置づけだった気がするし、熊モチーフ自体に共通の意味があるのかなあ。
見終わって感動してしまって、ちょっと泣いてしまった。改めてもう一回見たらもっと面白いだろうな。